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VIVITAのツボ#2 VIVITA JUNCTION 孫泰蔵プレゼンテーション—これからのVIVITAについて話そう

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VIVITAのツボとは!?
VIVITAでは日々、多岐にわたるプロジェクトが遂行されています。それらのプロジェクトに関わっているヒト、そこから生み出されるモノ・コトについて、代表の孫泰蔵が聞きたいことを聞きたいだけ聞いたり、時に語ったりするコーナーです。


はじめに

VIVITAは「子どもたちの好奇心を実社会で活きるスキルへと成長させていくクリエイティブ・コミュニティ」として、以下の3つをミッションに掲げ、活動してきました。

PROVIDE:全ての子どもたちにクリエイティブラーニング環境を提供する
BUILD:クリエイティブな子どもたちのコミュニティを構築する
DEVELOP:新世代のクリエイティブツールとプラットフォームを開発する

vivita.co

ところが今年に入り、COVID-19の蔓延によって、これまであたりまえだと思っていた世界がすっかり変わってしまいました。私たちも感染予防のためVIVISTOPをクローズし、進行中のプロジェクトをオンラインに移行して、子どもたちとの新たな活動や接点をつくりだすなど、試行錯誤を続けています。

しかし、これまでの延長上で、活動をオンラインとオフラインのハイブリッドにしていくだけでいいのでしょうか。人々の生活様式はもちろん、社会のあり方や価値観が著しく変化していくなかで、VIVITAも自分たちのあり方をゼロから考え直す必要がありました。

そもそも、何のためにVIVITAをやるべきなのか?モノづくりはなぜ大事なのか?—— 原点に立ち返り、クルー同士でていねいに議論を重ね、VIVITA代表の孫泰蔵さんとも対話を繰り返しおこないました。

そして7月某日、VIVITA Japanの全社会議「VIVITA JUNCTION」 において、これまでの議論と対話をベースに「これからのVIVITA」について泰蔵さんから提案がありました。これはそのプレゼンテーションを書き起こし、インタビュー形式に編集したドキュメントです。

投げかけられた問いに対して、VIVITAクルーのひとりひとりが自ら考えて行動を起こしていく、その第一歩でもあります。(さかい)

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これからのVIVITAについて話そう

——今回、COVID 19の影響で、様々なことが今までのようにはいかなくなりました。そのことについて、泰蔵さんがいま思っていることを聞かせてください。

こういう大きな異変が起きて、僕も完全に頭がフリーズしてしまって、しばらくなにも考えることができず、ただ呆然と事態を傍観してるような状況に陥ってしまいました。

とはいえ、ずっとそうしているわけにもいきません。

みんなで集まることが難しくなってしまったVIVITAでも、オンラインをどう採り入れるか、オフラインとどう使い分けるか、などいろんなことを考えなければなりません。

ということで、いまいろいろな問いを立てて、それらの問いについて一所懸命考えています。

皆さんも既に認識しているように、この状況はすぐに収束して今までどおり元どおり、ということにはなりません。コロナウィルスは、ワクチンが完成し、それが大量に製造され、そして多くの人々に行き渡らないかぎり、治療法が確立しているインフルエンザのようには扱えません。そのような状況になるまでには少なくとも数年はかかるでしょう。

ですから、こういう状況にずっとつきあっていかなきゃならない。今回のCOVID-19が収束したとしても、鳥インフルエンザやMERSやSARSなど世界にはいろんなウイルスがいて、これからも新種のウイルスがどんどん出てくるでしょう。そのたびにまた同じようなことを繰り返すのか、という問題があります。

感染症の大流行のたびにVIVISTOPを閉鎖して、過ぎ去るのを待って、再開。また閉鎖して、過ぎ去るのを待って、再開。そんなことを繰り返すことで本当にVIVISTOPを運営していけるのか。

そもそもVIVISTOPをやることがVIVITAなの?VIVIWAREを提供することがVIVITAなの?もっといえばVIVITAって何のためにあるんだっけ?という根本的な問いについてあらためて考える機会になっています。

——どうしたらいいんだろう?って悶々と考えている人が多いと思います。

そうですね。もちろん僕もこれだ!という決定的なアイデアを持っているわけではないのですが、僕がいま考えていることについて少しお話してみようと思います。

解決しない「systemicな問題」

巷でよく「solution(ソリューション)」という言葉が使われますよね。システム開発会社などが自分たちを「ソリューションプロバイダー」と言ったりします。この言葉が象徴する考え方は、「この問題の本質は何か」ということを特定し、その問題を解決するための「課題」を定義し、その課題を解決するための「解決策(ソリューション)」を考えて実行し、いわゆるPDCA(Plan-Do-Check-Act)サイクルを回しながら改善していく、というものです。物事というのはこういう方法で進めていくんだと、少なくとも僕は若い頃にそう教わりました。

今回のCOVID-19をはじめとして、世界にはいろんな問題があります。それをどう解決したらいいんだろう?と考える時にも、こういう考え方で取り組むのが王道だと多くの人が考えています。しかし、このようなやり方ではもうダメだ、とも言われ始めています。なぜかというと、結局このような方法では問題はちっとも解決しない、ということが明らかになってきてるからなんですよね。

——「ソリューション」という言葉はよく耳にしますが、それではダメなんですか。では、どうしたらいいんでしょうか。

繰り返しになりますが、世界には大きいものから小さいものまで、いろんな「問題」があります。例えば、いま「Black Lives Matter(BLM)」が大きなムーブメントになっています。BLMには人種差別という「問題」が表面上にありますが、その根底には、経済格差の問題や社会保障の問題など、いろんな問題が複雑に絡み合っています。

「systemic discrimination(システミックな差別)」という言葉を聞いたことはありますか?実は「systematic(システマティック)」と「systemic(システミック)」とは意味が違うんです。

「システマティック」というのは、法律や規制など社会の制度やシステム上に不平等があるということなんですが、それでいうと「システマティックな差別」は現在ではそんなに無いんです。例えば雇用に関していえば、雇用機会均等法などが整備されていて、法律上で差別されるということはない。

いまBLMで議論されているのは「システミックな差別」で、社会制度の話ではありません。システムをひとつひとつ要素に分解してみると差別的なことはどこにもないんだけど、それが合成されて複合的になった時に、やっぱり差別されたり虐げられたりするようなことが起きているよね、という話なんです。これをなんとかしなくてはいけないのですが、じゃあ、どうやってその「システミックな不平等」を改善したらいいのか?ってことになると、みんな静かになってしまいます。

なぜか。

サイエンスやテクノロジーの世界ではよく、原因を究明するために大きな事象を要素に分解し、一個一個を観察してダメなところを個別に改善し、バラバラになったものをもう一度組み上げるというやり方で故障を直したりして、問題を解決しようとします。これを「要素還元主義」というのですが、これは非常にわかりやすくてパワフルな方法論なので、多くの人が社会の問題についてもこういう考え方で解決を図ろうとします。

しかしこれが、全然役に立たないのです。まったく解決しない。それどころか、分解してみても何だかよく分からないとか、そもそも分解できないとか、いろいろな次元でいろいろ難しいんです。それで結局、どうしたらいいのかわからない、お手上げ、ということになってしまうからです。

論理的な思考で解決できるような、ある意味「シンプルな」問題は、実は既に結構解決しているんですね。今残っている問題は、そういう論理的な思考とか要素還元主義のアプローチでは解決しないような複雑で大きな問題ばかりが残っている。しかもそれはどんどん増えている、というのが現在の状況なのです。

例えば、国連が提唱している問題解決の目標として「SDGs(Social Development Goals)」というものがありますが、あのゴール、年々増えてるんですよね。最初は5、6個だったものが、10個20個になっている。解決すべき問題は、減るどころか増えています。

問いを立て、探究することの意味

——たしかに、どんなに学問や技術が進歩しても、問題が根本的に解決しないのは不思議です。どうしたらいいんでしょうか。

「問い」を立てるんです。まず、「そもそも、なぜ差別ってあるんだろう?」など、問いを立てます。そして、その問いをどんどん深めていくのです。

例えば、人種差別と一言でいうけれども、そもそも人種ってなんだ?遺伝的な話なのか?メラニン色素が濃いか薄いかって話なのか?とか、いろいろな問いが出てきますよね。それらを深めていくうちに、ここから先は実際に調べてみたり、手を動かしてみないとわからないよね、というところに行き着きます。

それで実際に手を動かしてみる。そうするとわかってくることがある。それによって、それまでの問いがより深いものになる。そこでまた次の行動を起こす。そしてまたいろんなことがわかってくる。そして、それらをもとにまた新しい問いが生まれる・・・そういうプロセスを繰り返していくんです。

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ちなみに、生物学的・遺伝学的には人種というものはないと言われてます。これは最近の研究成果なんですが、黒人や黄色人種に特有のDNAの配列、白人に特有のDNAみたいなものはなくて、あるのは個体差だけだ、ということがハッキリしてきたんです。それは実際に調べるという行動を起こしたからわかったことですね。

「でも明らかにアフリカ系の人とアジア系の人という傾向があるけど、それはなんなの?どこに境目があるの?」という疑問が出てきます。いや、それはただのグラデーションだ、個人差のスペクトラムだ、などの意見も出てくるでしょう。「じゃあ、そのグラデーションは何段階なんだろう?」という問いが必然的に生まれ、それに対して、4段階だ、10段階だ、いや256段階だ、などいろいろな見解が出てくるでしょう。「そもそも、人間の目は何階調を認識できるのか?」という問いも出てくるかもしれない。

そうやって問いを立てて、仮説をもとに行動を起こし、そこから新たな問いが生まれて・・・というふうに続けていくことを「探究」と言うわけですが、たどってきた道をふと振り返ってみると、ああ、結構いろんなことがわかってきたね、という事実に気がつきます。

そうやって探究によって深まったり変わったりした私たちの認識が、結果的に何かを解決していることがあるかもしれないんです。

——それがいわゆるイノベーションというものにつながるのでしょうか?

ええ。いわゆるイノベーションと呼ばれるものは、そういうものなんじゃないかと思うんですよね。

誰かがユニークな問いを立てて行動を起こし、あくなき探究を続けた結果、たまたま画期的な新しい発見や発明が生まれた。それらが普及して、ふと気がついてみると、これまで問題だとされていたものがたまたま解決していた。それを後世の私たちがイノベーションだと評価しているんだと思うんです。

実際、偉大な発明や発見は、ひょんなことから生まれた、というエピソードがよくあります。例えば、ニュートンが散歩していてリンゴが落ちるのを見て、ふと重力の存在に気づいたという話がありますが、実際の本人は、イノベーションを起こすぞ!なんて思っていたわけではないと思うんです。

重力という、物理学の非常に基礎的な概念を発見した彼を、科学技術に貢献した素晴らしいイノベーターだと評価しているのは、後世の私たちなんですよね。

何が言いたいかというと、新しい発明や発見が素晴らしいイノベーションかどうかは、後世の人間が評価する結果論でしかない、ということです。ですから、結果を見越して論理的な思考にもとづいて、効率よく打算的におこなう活動からイノベーションが生まれることはほとんどない、と言えるでしょう。なぜなら、複雑系の極みであるイノベーションを予見することは、人間の頭脳には到底できないからです。

これまで王道とされた「問題解決」という方法論は、まず何が問題なのかを定義し、次に成功の基準を決めて、それを実現するための解決策をいくつか出し、その中からベターと思われるものを実行していく、というやり方でした。そして、成功の定義を満たせれば問題は解決できた、満たせなければ解決できなかった、という評価をしてきました。

これが論理的な思考であり、それがきちんとできることが優れた能力なのだから、そのように考えなさいと僕たちは学校で教わってきたし、実際に実践もしてきて、それがあたりまえだと思っています。でも、それでは複雑な難問は解決しない。イノベーションも起きないんです。

純粋な好奇心から問いを立て、行動を起こしたことが、ひょんなことから新しい発明や発見を生むことがある。最初はなかなか理解されないけれど、斬新でおもしろく、便利だったりするので、徐々に世界に普及する。普及することによって社会が変わる。社会が変わることによって、それまで問題とされていたことが、気がつけば雲散霧消してしまってることがある。すなわち、問題が解決していることがある。それをもって、イノベーションが生まれたと私たちは評価するのです。

ですから、先が見通せない、複雑な難問だらけのこれからの時代において大事なのは、論理的に解決策を出そうとする態度ではなくて、「核心を突く良い問いを立てる」ことだと思うのです。

いま私たちが直面している課題

——「イノベーター」と呼ばれる人に学校をドロップアウトした人が多いのは偶然ではないのでしょうか。

偶然ではないと思います。これまでの学校は「社会を生き抜くための課題解決力を身につけさせる」という「社会的統合」を目的としてきましたので、好奇心のままに問いを立てて自由に行動するような行動は、奨励されないどころか、制限されることが多かったですからね。

それに不満を持った人が、学校を中退したり退学になったりして、そのまま思いきり自分の好きなように探究の旅に出た結果、画期的な発見や発明をしたという例はいくらもあります。ただ、正確には学校の良し悪しはあまり関係なく、要はそういう態度で世界に対峙するかどうか、という姿勢の問題なのだとは思います。

いま世の中で大きな問題って言われているもの、例えば環境破壊なんかは、とてもクリティカルな問題だと思うんですよ。今という時代は、文明や技術がものすごく発達したせいで、人類が地球全体に本当に深刻な影響を及ぼすような力を持つようになってしまいました。原発などもそうですし、ロシアで永久凍土が溶けてプラントが傾いて、2万トンくらいのオイルが流出して河川が真っ赤に汚染されているとか、そういうことがあちこちで起こっています。

このまま放置していたら間違いなく大変なことになるでしょう。ひとりひとりができることをしよう、プラスチックを分別しよう、などというだけでは埒が明かないわけです。

このような、いま実際にどんどんひどくなっていることに対して、私たちは何をどうすべきかということが、VIVITAはもちろん、現代に生きるすべての人が本当に直面している課題なんだと思うんですね。だから、僕自身もこれからの自分の生き方として、そういったことをちゃんと探求して、世界が少しでも良くなるように変えたいし、後世に続く若い世代に対して少しでもいい形でバトンを渡していきたいと心の底から思っています。

今回のコロナ禍で3ヶ月間自宅にこもることになって、自分なりに、それはそれはたくさん勉強しました。普段はあまり考えないこと、例えば、「どうやったら人類は気候変動に対応できるか?」「どうやったら拡大する格差を解消することができるか?」「そもそも人間はどう生きるべきか?」というようなことを深く考える機会になりました。

受験勉強の時も相当勉強したのですが、比べものにならないくらい真剣にたくさん勉強しました。なぜなら、自分が心の底から学びたい!と思ったからです。アラフィフにして生まれてはじめて、学問をするとはどういうことなのか、リベラルアーツとは何なのか、ということがわかったように思います。学問というのは本来すごく楽しいものであるということ、いつ、どこで始めてもいい、とても自由なものなのだということが、ようやく体感できました。自分ゴトになった問い、自分ゴトになった学問は本当に楽しいし、ワクワクするものだということを知りました。教育機関に行く行かないは関係ないですね。

——そういった時代や世界のなかにあって、VIVITAは何をすべきでしょうか?

なぜ僕がVIVITAをやろうと思ったか、VIVITAとはなにか、ということに加えて、今という時代をどう生きるべきかということを考えた結果、これまでのコミュニティの考え方に「自律共生のための」という言葉をつけ加えたいと思っているんです。

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VIVITAは、自然と共生しながら自分たちで自律的に生きていけるような人たちのコミュニティになればいいなあと思っているのです。私たち一人一人がそういう存在になれれば、みんな楽しく豊かに生きていけると思うからです。

楽しく遊んでいるうちに、生きていくのに必要なものは自分たちで何でもつくって生きていけるような知見や技術、感性が身につくようなコミュニティを目指したいと考えています。

分業が作り出す脆弱な社会

今って、資本主義がものすごく発達した産業社会と言われていますが、産業の一番本質的な特徴は何かといえば、「分業」なんですよね。分業とは、生産性や効率を高めるために仕事を分担することです。工場なんかはまさにその典型で、ネジだけを延々と締め続けるとか、色だけを塗り続けるとか、磨くだけとか、工程ごとに分業が進み、仕事が細分化され専門化しています。

そうすると生産量が上がって、たくさん安く作れるようになる。その結果、便利なものをみんなが手に入れやすくなる。これまでの社会では、工業化・産業化することに大きなメリットがありました。

しかし、ただ単に高品質の製品を安く作るということだけならばそれで良かったけれど、そのような生産性や効率を求める資本主義的な考え方が、モノづくりだけじゃなく、私たちの精神や考え方、心の非常に奥深いところまで染み込んでしまっているんです。ここが問題だと思います。

例えば、会社に所属して仕事をすると、組織内で細かく分けられた部署に配属させられます。そして、その部署の中でなんらかの担当に任命されて、あなたはこれをやりなさいと指示が降りてきます。働く内容はものすごく細切れに分割され、その仕事だけに集中しなさい、と言われる。

そういう労働を中心に組み立てられた社会のもとで、そういう働き方に最適化されたライフスタイルを送るうちに、私たちの内面もそういう考え方に完全に染まってしまいます。そういう人々によって社会が構成されているので、社会の制度や街そのものも完全に分業を前提としたデザインになっています。

だから、手続きをしなきゃいけない時は役所に行き、病気を治さきゃいけない時は病院に行き、勉強をしなきゃいけない時は学校に行き、受験で落ちて浪人したら予備校に行かなければならない。なにをするにもすべて専門特化した場所があって、我々はいろんなところに行く必要がある。

——世の中は専門特化した場所や人で溢れかえっていますね。

分業しないと量をさばけないから、専門化された場所がどんどん作られて社会全体の生産性が上がるようにしてきたんです。でも、次のふたつの理由で、それはもう終わりにしたほうがいいし、実際に終わりにできるんですよ。

ひとつは、分業が進みすぎているがゆえに起こっている物理的な問題です。その場所に行くためにいちいち車や交通機関を使うから、ひどい渋滞が起きたり、現地ですごく待たされたり、コロナのようなウィルスに感染するリスクもあります。燃料をたくさん使うので環境に良くないというのもあるでしょう。

もうひとつは、私たちの心の奥深いところにまで「分業根性」が染み込んでしまっているがゆえに起こっている問題です。何か面倒なことがあると、「私にはそんなことはできないし、私がやることじゃない」と自分で線引きをして、誰かに面倒を押し付け、自分に不都合なことがあるとクレームを言ったり責任を転嫁することでフラストレーションを解消しようとします。また、誰かにどっぷり依存して、自分でなんとかしようというふうには絶対に考えない、というのもあるでしょう。

普段から専門特化した細かいことしかやってないので、例えば、災害が起きて避難所に避難したとしても、自分の専門を越えて、人々の役に立つようなことは何もできない。起こし方を知らないから、火だって起こせない。体力もあまりないから薪も割れない。応急処置の仕方も知らない。ああ、スマホの電池が切れそう、やばい、とスマホを後生大事に抱えているだけになるのではないでしょうか。

——何もできなくて困り果てている自分が容易に想像できます。なぜそうなったんでしょうか?

産業社会の考え方が全体に浸透しすぎて、こういう末期的な状況になっているのだと思います。分業された仕事をする労働の対価として給料をもらうサラリーマンの親に育てられた子どもが、成長して大人になり、親になって子を育て・・・というのが三世代以上続いて、社会のマジョリティになった結果だと思います。

サラリーマンは、会社からものすごく細分化された仕事をひたすら確実にこなせって言われて仕事をしていますが、全体のごく一部分しかやっていないので、自分がやってる仕事に対する手応えなど全然ない。だけど、お給料もらうためにはそれをやらなきゃいけない。だから、彼らに「仕事はおもしろいですか?」とたずねても、「いやあ、おもしろいとかおもしろくないとかそういう問題じゃないんですよね・・・」とかいう答えが返ってきます。「おもしろすぎて、明日がくるのが待てない!」なんていう人はほとんどいません。

このように分業が行き過ぎた結果、現代はとても脆弱な社会になってしまいました。これはほんとうにマズイと僕は思うんですよね。こんなの、もうやめたほうがいい。

情報技術がじゅうぶん発達しているのだから、例えば手続きなんてエストニアやシンガポールのようにオンラインでやればいい。情報のやり取りだけだったら、わざわざどこかに行かなくてもできることはいっぱいあります。仕事もそんなに細分化する必要はない。細分化されやすい機械的な仕事はAIやロボットなどに任せて、人間はもっと全体的な観点から取り組むような仕事をすればいい。

だけど、人間には「経路依存性」というものがあって、これまで慣れ親しんだものに引きずられる性質を持っています。それで、行き過ぎた分業を解消する技術は既にあるにもかかわらず、なかなかそちらへ移行できずにこれまできました。しかし、それでは本当にマズイことになると思います。

ご存知のように、最近は「未曾有の事故」や「天変地異」「何百年に一度」という災害が毎年起こっています。そういう状況の中で、何が起こっても自分たちで生きていけるようになっておくことはとても重要です。ですから、最新の技術はもちろん、引き継がれてきた技や伝統などもフラットに見て、良いものはどんどん学んで、自分たちで何でもできるような社会をつくっていくべきだと思います。

逆に言えば、自分たちで生きていく力を持っていないと、何かと誰かに頼って生きていかなければならくなります。資本主義の世の中ですから、何かを手に入れるためにはお金を払わなければいけません。なので、生きていくためにお金を稼ぎ続けなければならない。その結果、おもしろくもない仕事をして人生の大半を過ごし、常にお金がなくなることにビクビクしながら、将来に不安を感じて生きていくことになるわけです。

「私たちは、死ぬ日まで、いや死んだ後にまで、一瞬たりとも休むことなく、ありとあらゆるものを自前で買い続けなければならない」という現実を、もっと深刻に受け止めるべきです。そして自分に対して問いを突きつけるべきです。「ほんとうにそういう人生を送りたいのか?」と。

——そうですね。資本主義のサイクルのなかに組み込まれている感じがします。

例えば、公立の保育園の抽選に外れちゃうと私立に入れるしかないけど、費用が高いからたくさん稼がなきゃいけなくて、朝から晩まで働き詰めにならなきゃいけない。そうすると働くことに精一杯で、とても子育てに余力がまわらないので、ますます預けなきゃいけない。その結果、延長料金を取られる。だからますます稼がなきゃいけないんだけど、もう無理!となって、ひとり親世帯が貧困に陥ります。

いま、こういう悲劇が本当に増えているんですよね。本末転倒じゃないかと。こんな世界、誰も望んでないですよ。それなのに、そういう不幸、先ほど言った「システミックな不幸」が世界中で量産されているのです。

僕がVIVITAをやっている目的は、そのような不幸が量産される社会を変えて、不幸をなくしていくことなのです。

未来をつくるのは常に新しい世代です。その世代、子どもたちが未来をつくるときに、彼らが余計な心配をせずに、楽しく生きていけるようにしてあげたい。学校だけでは全然不十分だし、社会のなかに子どもたちがのびのびできる環境が少ない。何かできることはないかと思って、僕はVIVITAを始めたんです。

自律共生のためのコミュニティへ

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だからこそ、VIVITAは「自分たちで自律的に生きていくために必要なことを、楽しく遊んでいるうちに結果的に身につけることができる」コミュニティでありたい。といっても、ライフスキルが向上することを目的にする必要はありません。基本的にこういう活動は楽しいから、やっているうちに結果的にライフスキルやクリエイティブなマインドセットが醸成されている、ということを目指したいと思います。年齢も関係ありません。僕ら大人だって、自分たちで生きていけるような知見やノウハウ、マインドは全然足りていませんからね。

今回のコロナ禍を通じて、VIVITAがもともと持っていたこの色彩を、もっと鮮明に打ち出していくべきじゃないかと、僕はさらに強く深く思ったんです。

デジタル百姓になろう

——VIVITAのクルーは、取り組み方を見直すべきでしょうか?

VIVITAは何を作ってもいいし、何をやってもいいんです。でも、何でもやっていいといわれると逆に、じゃあ何したらいいのかな?って迷ってしまったりすることもありますよね。

VIVITAが普通の会社っぽくないのは、僕がこのへんをすごく意識してVIVITAという会社を運営しているからです。クルーの皆さんに会社からの指示ってほとんど無いですよね。それは分業をしたくないからです。クリエイティブな環境をつくるっていうのに、指示されないと動かないというのは大いなる矛盾で、悪い冗談でしかない。だから、自分で何をするべきか考えながら好きなようにやりなさい、ということなんですけど、だからこそモヤモヤする、という部分もあると思います。

みんな、VIVITAにとって良いと思われることをやろうって考えているでしょうし、実際、一所懸命やっていると思います。これは誰かを責めたり批判してるわけではなく、自分自身に対して言いきかせるつもりで言うのですが、なぜモヤモヤしたりするのか、なぜ何をするべきなのかをビシッと答えられないのかというと、探究が足りないからだと僕は思っています。

——さきほどの、「問いを立てて行動すること」が必要ということですね。

そうです。自分のライフワークとなる探究のために、どんな問いを立てているか。もちろん何でもいいんですけれど、そこにはやはり、どんな問いを立てるべきか、という価値観の問題はあると思うんですね。

鬼ごっこをVIVISTOPでやっていいかという議論がありますが、もちろんダメということはありません。しかしあえて極論を言うと、僕は鬼ごっこはVIVISTOPでやるべきことではないと考えます。2つ理由があって、ひとつは鬼ごっこは自分たちで公園でやってくればいいじゃん、ということと、もうひとつは、これまで語ってきたようなVIVITAのコンセプトにそれほど直結しないと思うからです。

じゃあ、モノづくりは?と言うと、これも難しいですよね。VIVITAはモノづくりをするところである、というコンセンサスはみんなにあると思いますが、モノづくりの定義は?と言われると曖昧になります。けれど、先ほど提案したように、自分たちで自律的に生きていくために必要なことが結果的に身につくようなモノづくりだったら、それはすごくいいと思うんです。

例えば、金沢でも少しずつVIVITAの活動が始まっていますが、金沢は伝統工芸が盛んですよね。僕は、伝統工芸を取り入れるのはとても良いと思っています。伝統工芸と一括りにしていますが、それは先人たちが自分たちで豊かな暮らしをしていくためにいろいろと工夫したり、技を磨いたりして、研鑽を積んで培ってきた技と知恵の集合体だからです。

むしろ、中世は20世紀みたいな産業社会じゃなかったので、あまり分業が過剰に進んではいなかったんですよね。皆さんもご存知のように、日本にはかつて「百姓」と呼ばれる人たちがいっぱいいました。皆さん、百姓っていうのは農家だと思っているかもしれませんが、そうではないんですよ。百姓は農作業をやっていることが多いから、私たちが勝手に農家だと思っているだけで、それは現代人的な見方なんです。

「百姓」の本来の言葉の意味は、「百のスキルを持つ人」という意味です。要するに何でもできる人のことです。実際、お百姓さんは、何でもやってました。米や野菜も作っていたけど、家の修繕もしたし、井戸も掘ったし、牛馬を飼い慣らして家畜を育てたり、裁縫をして服を作ったり、灌漑の用水路を作ったり、橋を直したり、いろいろなことができました。なぜかって、やらないと生きていけなかったからです。

——そんなふうになんでも賄える人のほうが貴重な世の中になって久しいです。百のスキルを取り戻せるでしょうか。

逆に技術的なことで言うと、今は3Dプリンターやレーザーカッターといったデジタル・ファブリケーションが発達してきているし、これからAIもどんどん発達して、ほとんど無料に近い形で、APIをたたけばすごいものが使えるようになります。つまり、個人レベルでも衣食住遊に関するいろんな技術を活用することができるような環境が整いつつあるわけです。それを使わない手はないですよね。

そうすることによって、自分の専門領域以外は何にもできないという人間が量産される社会から、ある意味すごく懐かしくて新しい社会に変えていくべきだと思うんです。

人々が自分たちに必要なタイミングで、必要な分だけを作って消費するようになれば、結果的に、大量の燃料や資源を浪費して濫用するようなこともなくなります。「足るを知る」という価値観が日本にありますが、人々の生き方が変われば、地球環境を破壊することもなくなるかもしれません。

自分たちの手に作る力を取り戻す

だからこそ、VIVITAに「自律共生のためのコミュニティ」という価値観を追加したいと思います。今まで、クリエイティブなラーニング環境を提供していきましょう、ツールとプラットフォームを作って提供しましょう、それでコミュニティを構築しましょう、というミッションを掲げてきましたが、その大前提にもうひとつ、この新しい価値観を付け加えたいと思うのです。

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なにものにも制約されず、人間的で自由な暮らしをするために、自分たちの手でなんでもつくる機会を増やし、自律的に生きていけるようにすること。これはとても大事なことだと思います。

個人の力を高めて、新しい社会をつくっていく。そのために、いろんな楽しさをみんなで分かち合いながら、VIVITAのコミュニティを広げていこうと思います。それは日本に限ったことではなく、どこの国にも必要なことだし、世界中に同じ志を持つ人がたくさんいるので、このコンテクストでもってグローバルにコミュニティを構築していけたらと思います。

衣食住遊に必要なものを自分たちで何でも作れることを楽しんでやる。楽しんでやっているうちに結果として、そういうスキルが身につく。VIVITAはそのようなコミュニティである、ということを強く強く打ち出していけたらなあと思います。

——この提案をきっかけに、これからみんなで議論をしていきたいですね。

Convivialityを実現するミッション

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VIVITAはConviviality(自律共生)のためのコミュニティである、という明確な意思が、これまでのミッションに書き加えられました。 今後、VIVITAクルーのひとりひとりが、そこに対してどんな問いを立て、どんな行動を起こしていくかを考え続けていきます。(さかい)


(編集・孫 泰蔵 × 境 理恵 × 窪田 有希 /デザイン・mix)